日泰寺仏舎利奉安塔

奉安塔前

1898年(明治31年)イギリス人ウィリアム・ペッペは
ネパールとの国境近くのインドピプラーワーで
古墳の発掘作業中、各種の宝物とともに
人骨を納めた一つの壷を発見しました
壷には古代文字が刻まれており、解読したところ、
それが釈迦の遺骨である事が判明しました。
遺骨はシャム(現在タイ王国)王室に寄贈され、
その分骨はさらにビルマ(現在のミャンマー)、
セイロン(現在のスリランカ)、日本に分けられることになりました。
日本へ来た遺骨は一時、京都の妙法院に仮安置され、
遺骨を納める寺院の建設がはじまりました。
しかし、この寺院をどこに建設するかを
巡って仏教界は紛糾してしまいました。
その建設の候補地として京都を中心に
全国から名乗り上げましたが、激論の末、
 最後まで残ったのが、京都と名古屋でした。
1902年(明治35年)11月に最終決定の
会議が行われ、37対1で名古屋に決定しました。
そして明治37年、釈迦を示す「覚王」を山号とし、
日本とタイ王国の名前を冠した日泰寺が誕生しました。
その後1918年(大正7年)には遺骨を安置する
ガンダーラ様式の奉安塔も完成しました。
盛大な法要が行われた後、関係者が見守る中、
遺骨をいれた金の塔が奉安塔の中に納められましたた。
釈迦の遺骨はこの日を最後に奉安塔の中に塗り込められ、
永久に封印されました。
   
今では奉安塔の設計図も残っておらず、
中で遺骨がどのように納められているのか
知る人もいないといいます。
奉安塔に扉のようなものはなく、遺骨を取り出すには、
石造りの塔を破壊するしかないそうです。


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奥に奉安塔があります。 奉安塔は未公開なので普段は
見ることができません。
土台の部分だけが
見えます。

塔の上の部分はパンフレット
ぐらいでしか見ることができません。



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